やる夫光武帝、関連部分のみ簡易年表

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未登場異民族・文官たちの事跡まで入れると行数足りない上に、
中原攻略戦がややこしくなるので、略します。

創作に使えそうな怪奇現象は載せときます。

【かんたん年表】
■始建国元年(8年)「南陽豪族」「王莽失政」漢王朝滅亡。
■天鳳5年(18年)「赤眉大乱」赤眉軍の挙兵。
■地皇二年(21年)「陰麗華」緑林軍の挙兵。
■地皇3年(22年)「愛別離苦」劉秀兄弟の挙兵。真皇帝・王莽との戦い。

■地皇4年→更始元年(23年)
「家族」「更始帝」「英雄誕生・前編・後編」
「陰謀」「劉秀」「王莽最期」「群雄」「旅立ち」「虚像皇帝」
「薄氷」「政略結婚」
更始帝即位。新王朝滅亡。妻を娶らば陰麗華。河北鎮撫行。劉子興の即位

■更始2年(24年)
「烏丸突騎」「反側子自安」「長安乱脈」「蕭王」「火種」
「大樹将軍」「運命」
偽帝・劉子興との戦い。 盗賊軍団との戦い。謝躬処刑。更始帝との決別。

■建武元年(25年)「義士報恩」「更始最後」
光武帝即位、劉盆子即位。左大司馬・朱鮪との戦い。更始帝滅亡。

■建武2年(26年)「郭聖通」「亀裂」劉楊の乱。延岑が自立。

■建武2年(26年)「親友」
郭聖通を皇后に立てる。彭寵、奉の乱。

■建武2年(26年)~建武3年(27年)「司隷激震」「赤」赤眉軍との戦い。

■知識の回。「平沢唯による補足」辟召制度について。

■時期不明。「番外編」宋弘の糟糠の妻。 

■建武2年(26年)~建武3年(27年)
「南陽豪族・二」「非情」破虜将軍・奉との戦い。

■建武3年(27年)~建武5年(29年)「卑怯」燕王・彭寵との戦い。

■建武2年(26年)と建武5年(29年)「番外編・2」寇恂と賈復がケンカ。西平王・盧芳が挙兵。

■建武3年(27年)~建武4年(28年)「流浪」黎王・秦豊、延岑との戦い。

■建武4年(28年)「馬援」隗囂の使者として、馬援が来訪。

■建武3年(27年)~建武6年(30年)
「防壁」偽帝・李憲との戦い。

「虚々実々」「疑心暗鬼」「鏡面」
梁帝・劉永、龐萌、東海王・董憲との戦い。

「韓信二世」斉王・張歩との戦い。


■建武5年(29年)~建武6年(30年)「優柔不断」公孫述の北伐

■建武6年(30年)~建武10年(34年)
「隴西侵攻」「事業再構築」「來歙猛攻」「病魔」「名将帰天」
朔寧王・隗囂との戦い。

■建武11年(35年)~建武12年(36年)「忠臣無残」「光武中興・前編・中編・後編」
白帝・公孫述との戦い。西平王・盧芳との戦い。

■建武13年(37年)~建武18年(42年)「性欲」「功臣」「後継者」
郭聖通、降格。陰麗華が皇后に昇格。四子 劉荘が皇太子に。

■建武16年(40年)~建武19年(43年)「徴姉妹」「猛将帰天」
交趾で徴姉妹の乱。蜀の史歆の乱。大司馬の呉漢、没す。

■知識の回。「孝廉」

■綏和元年(前8年)~建武中元年(56年)「緯書」「封禅」
緯書と封禅の桓譚観。

■知識の回。「宦官」

■建武24年(48年)~建武中2年(57年)「挽歌」功臣、近親、光武帝世代の人々の死。

■建武中2年(57年)~永平18年(75年)「光武帝」明帝の治世。王景の治水。



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 //  ̄   // ,イ /!-/!‐!‐|‐!、/`リrf=|= /、! | ノ! i || '         歴史はカップリングがいっぱーい♪
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                班昭


【ふつう年表】
■建平元年(前6年)
・・劉秀、生まれる。劉秀が生まれた際、赤光が部屋中を照らした。
県境にめでたい稲が生えた。一茎に九穂もあった。ちなんで光武の名を秀とした。

■元始3年(3年)・・劉秀(9歳)。父・劉欽、病死。
■元始5年(5年)・・黄河が大氾濫。災異説に従い、王莽「なにもしない」事を決める。
■居摂2年(7年)9月・・東郡太守の翟義らが王莽に対して十数万で挙兵。12月。翟義ら、敗北。
■始建国元年(8年)・・漢王朝滅亡。予言の11人を大臣に立て、王莽即位。

従来の五行相克
「木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝ち、土は水に勝つ」
という王朝遍歴の流れを覆すため。

王莽は聖人が天下の主となるのに、前の政権を打ち倒すのはおかしい。
新は漢から天下を平和裏に譲られたのであり、奪ったのではない、として五行相生説を提唱。

五行相生とは「土は金を生み、金は水を生み、水は木を生み、木は火を生み、火は土を生む」
という説。そのため、以後の王朝遍歴は書き換えられることに。

1、黄帝=土徳
2、夏=金徳
3、商(殷)=水徳
4、周=木徳
5、漢=火徳

そして、王莽の新は火徳を継ぐ土徳(黄色を尊ぶ)を名のった。

■始建国元年(9年)
・・王莽。王田の制、制定。匈奴への待遇降格。長安で碧という女が道中に叫び。民を動揺させる。
「高皇帝(劉邦)は大いにお怒りだ。早くわしの国を帰せ。さもなくば、九月に汝を殺すぞ」
王莽は彼女を兵に捕らえさせ処刑。

■始建国2年(10年)
・・王莽。六管政策、制定。成帝の落胤を名乗る劉子興が出現。孫建将軍が逮捕し処刑。

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                    ||彡   __‐'_   ,ミ <  通報すますた!
              _,,, - '''´ ||`彡,  〈__/ ,ミ|   \__________
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孫建(そんけん)
:荘尤、廉丹と並ぶ新王朝では貴重なチート武将。やる夫と戦う前に寿命切れ。


■始建国3年(11年)
・・黄河がまたも大水害。河水は東寄りに流れを変えた。王莽、匈奴討伐の動員令を発す。

■始建国4年(12年)・・荘尤将軍が計略で高句麗侯・騶を討ち取り、その首級を長安に送る。

■始建国5年(13年)・・劉秀(19)、陰麗華(9)に会う。

■天鳳1年(14年)
・・呂母賊旗揚げ。劉秀、禹、朱祐。都、長安に移り太学で学ぶ。

4月 
霜害が海岸地方に甚だしく、草木を枯らした。

6月
黄霧が四方を塞いだ。

7月
台風発生。

大粒の雹が降り、家畜被害甚大。

辺境に飢饉が発生。人が相い食む。


■天鳳2年(15年)
・・黄山宮に黄竜が堕ちて死んだ、という噂が流れる。黄色は新王朝のシンボルカラー。
田中芳樹・著「燭怪(しょくかい)」の舞台はこの辺。

邯鄲から北で大雨発生。水死者、数千名。

王莽、匈奴単于を恭奴善于に改め挑発。孫建が亡くなった。


■天鳳3年(16年)
・・2月
大地震。大雪害。

黄河が氾濫。

長安の霸城門で大火事。

10月
王路の朱雀門が一日中音響を発するという怪事件。
崔発らは、これを虞の故事に準えて、四方の賢者を招聘すべきとの予兆であると解釈した。


■天鳳4年(17年)
・・旱魃、イナゴの被害相次ぐ。

呂母賊、敵討ち達成。呂母死亡。緑林軍、旗揚げ。


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   /            /     ヽ | レ /    ヽ      /      Hニ夫ニヵ ___!       ヽ
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 |     / イ  :::ヽゞニ゙''′_,/::::::::::|   |:::::::: ̄三三彡 |         ̄    手弋         |
  |    / / |    __ ̄二彡ノ ;:-‐| .::::. ー、:::(`.:::. :::::  |         /                |
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   /\  \ヽ    ((( \\____,.-‐二‐'´  |/ノ   \           | (ナ-、      /


■天鳳5年(18年)・・呂母賊を吸収し、樊崇が旗揚げ。赤眉軍の始動。
■天鳳6年(19年)・・劉秀、就職をあきらめ故郷へ。
■地皇元年(20年)・・劉秀、庶民に落された本家の春陵侯の田租のことで大司馬・荘尤に堂々と陳情。

■地皇2年(21年)
・・緑林軍の挙兵。荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが雲杜の戦いで迎撃。

■地皇3年(22年)
・・4月 
成昌の戦いで、赤眉軍が新の大師・王匡と更始将軍・廉丹を破る。
廉丹は王匡をかばい戦死。


劉秀、兄の劉伯升と挙兵。長聚、唐子郷、湖陽、新野の戦いに勝利。
棘陽の戦いを制した晨、陰識、李通と合流。棘陽の県長だった岑彭は兵を温存して逃走。

11月
孛星(彗星)が張の方角に向かい、東南に五日行きて見えなくなった。
周と楚の地に兵乱があることを表しているのだ。(誰の言葉か不明)

小長安の戦い。
新:南陽太守・甄阜。南陽都尉・梁丘賜。棘陽県長代理・岑彭。兵数10万 

劉伯升軍:劉伯升。劉秀。
朱祐、晨、李通、陰識、劉嘉、劉玄、朱鮪、奉、李軼、王匡、王鳳、
劉伯姫、馬武、劉稷、劉終、劉良、陳牧ほか。
兵数4万強

劉伯升軍・敗走。

樊嫺都が病没。劉仲、劉元と晨の娘三人、來歙の妹、劉嘉の妻が戦死。 
李通、晨の親族数十名、劉良の妻と二子は処刑された。

12月末~元旦
緑林軍の別働隊、下江の王常軍と合流。劉伯升軍改め、山賊・豪族連合軍に。
兵数3万弱に5千が加算。

成昌の戦い→水の戦い。劉伯升軍、藍郷で南陽太守・甄阜、梁丘賜を討ち取る。
岑彭は兵を温存して逃走。


     ,, - ―- 、
  ,. '" _,,. -…;   ヽ
  (i'"((´  __ 〈    }
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  }
  ヾ|!   ┴’  }|トi  }  
    |! ,,_      {'  }  まだだ…まだ犯られるワケには
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、           
    ヽ ‐'  /   "'ヽ
     ヽ__,.. ' /     ヽ     いかないんでね
     /⌒`  ̄ `    ヽ\_
    /           i ヽ \   
   ,'              }  i  ヽ
    {             j   l    }
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   ト、    }   /  /   l  | .|
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■地皇4年→更始1年(23年)
・・劉伯升軍の兵数3万5千が育陽で新の将軍、荘尤を敗走させる。戦死者3千人。

2月
劉玄が更始帝として即位。山賊・豪族連合軍改め、更始帝軍に。

王莽、成昌の戦いの敗北を聞き憂い。更始帝が即位するとますます恐れた。
劉伯升の首を取るものは五万戸に封じ、黄金十万斤、上公の位にするとした。
長安の官署と天下の郷亭に劉伯升の画像を書かせて弓の的とした。

平然を装うため、髭や髪を染め。周の制度に従い後宮制度を改め合計百二十人の妃を
迎えた。この日、風が強く屋根が飛び木が折れた。

宛の戦い。
新:岑彭。兵数不明

更始帝軍:柱天国将軍・劉伯升。
李通、陰識、劉嘉、劉玄、朱鮪、劉稷が参戦。兵数10万

昆陽の戦い。
新:
大司空(丞相の意)・王邑。大司徒(丞相の次官)・王尋。納言将軍・荘尤。
塁尉・巨無覇。竇融、陳茂が参戦。
さらに兵法家数百名。
猛獣使いと虎、狼、豹、犀、象。
鎧をつける士官が四十二万。虎牙五威兵と号した。兵数100万

更始帝軍:
成国上公・王鳳。廷尉大将軍・王常。
太常偏将軍・劉秀(実質的にはNo3の地位)中郎将・李軼。
朱祐、傅俊、馬武、奉、王匡、晨、任光、臧宮、王覇、趙憙が参加。兵数1万


5月
宛の戦い、岑彭が降伏。昆陽の戦い、王尋の戦死により決着。
ともに更始帝軍が勝利を収める。

昆陽の敗戦を知った王莽『周礼』に従い、天に救いを求めるため泣き声の悲哀な者を取り立てた。
このため、郎の数だけで5000人に達したと言う。

劉秀、豫州潁川郡の攻略。銚期、祭遵が仲間に。
父城で馮異と対戦。馮異が仲間になることを約束。


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6月
更始帝が劉伯升の名声を恐れ劉稷ともども処刑。
劉秀、更始帝の監視下にある中で陰麗華を娶る。

更始帝、
洛陽の攻略に王匡を派遣。
長安の王莽の討伐に、丞相司直(大司徒の属官)李松、趙萌、申屠建を派遣。        
潁川郡の攻略は朱鮪、岑彭が引き継いだ。 


8月
王莽の従弟の王渉が導士・西門君恵の予言を信じ、王莽の
腹心の劉秀(劉歆が改名)、董忠らと共に王莽に反乱。敗死。

王莽、首脳部の内乱にショックを受け、洛陽を守らせていた王邑を、王匡、哀章と
入れ替えに長安に帰還させ、そばに置く。

更始帝軍の進軍に官吏や豪族の曄と于匡という二人の人物が百余名をもって呼応。
王莽、征伐に九虎将軍を派遣。九虎の内、六虎が敗走。壊滅。
更始帝軍、武関を陥として長安へのルートを確保。

洛陽の戦い開戦。
新:王匡、哀章。
更始帝軍:王匡。

荊州汝南郡で劉望が即位。元新軍の荘尤が後ろ盾になる。


9月
更始帝軍、暴徒と化し長安を蹂躙。
新の王邑、戦死。王莽、威斗を振り回すも杜呉という者に殺され、八つ裂きに。
王莽の娘、王氏が自決。

更始帝軍の進軍に呼応した王憲、勝手に皇帝の旗を立て、宮女を陵辱。申屠建により処刑。
          
洛陽の王匡と哀章は王莽の死を聞き、更始帝軍に降伏。この時期の本拠地、宛に送られて処刑。
予言の11大臣の生き残りも同じく処刑されたものと思われる。

劉秀。破虜将軍・行大司馬事に昇格。


10月
更始帝、洛陽を首都に決める。荊州の劉望を討伐。劉望、荘尤ともに戦死。  

赤眉軍が三十万の勢力を率い、更始帝へ帰順。樊崇、逢安、徐宣らが洛陽に赴いた。
更始帝の処遇に不満を覚えた樊崇。離反。
樊崇、逢安の部隊は荊州南陽郡へ向け侵攻。
徐宣の部隊は司隸河南郡へ向け侵攻。

前漢の梁王の子・劉永が更始帝へ帰順。

劉秀、司隷校尉(首都圏警察長官)に任命され、洛陽の修復に。
父城の馮異が仲間に。主簿に任命。
陰麗華を育陽の奉に預ける。
洛陽のパレードで、漢王朝らしい正装を示す。



河北(冀州)の王莽勢力残党や地方豪族へ降伏勧告に赴く。
馮異、朱祐、祭遵、銚期、臧宮、王覇、馬成、傅俊が同行。
禹、魏郡の鄴で劉秀軍に合流。 

劉秀、元王莽軍の冀州鉅鹿郡の支配者、邳彤を帰順させる。
趙王の末裔、劉林が劉秀を訪ねる。
劉秀、趙国邯鄲で耿純に会う。
劉秀、中山国盧奴で耿弇に会う。


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            /  /´,,-‐'' """""'''' ‐- 、. \  \    / 立 .l
               ,l 〆Θ='''' """ ン フ''ミ=oァ `\ヽ  l     |  っ  |
            〈 (;;''" _,, -‐'",,=,,゙"'‐、 ヽ::::\ ヽヽ |.     |  て  |
            〉'  _ェ、'ゝ;"´l  `i '  l:::::::::::\`i|ン' .     |  下 .|
           /´-イ,"-,l  ` ,ゝ・‐´,,  ,, i:::::::::, 'ニ、ヽ,     |  さ  |
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    /   .\     i´ ヽ、テ  ,;   ';   ::,:: -――‐- 、.. .::  `y-'
    / 戦 な `i :::...  l   `  _.. -‐- 、 /;;;;;;;''''',, '':::::::::::`:ヾヽ、
   l   争 に  `ィ  ::: `、  , ',´‐ '"´´ /;;;;;;'''''  ,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,\\
   |  で .し   | .::.   `、. '´     .l;;;''''',,,,;;;;;;;;''';;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,'''';;;;;;ヾ.、
   |   す ろ   | .: :.   ゝ    .::::|,/: : : : /`'';;;;> 、"''''''';;;;;;,,,;;;;;/
   |.  の       |..: ..::,r'´;;;;;;;ヽ-‐ '':::" |: : : : :l;;;;;;'''''''',,,,,,,,,,,,;;;;;;> \;;ヽ
  ..:::|   で こ   l   ':::::. ;;;;;;;;;;;l i;;;; :::::l|: : : :ノ'',,,,;;;;;;;;;;;;'''''''"   ,,,,,,,,,,
  ::...|    れ  | ..::: . .:: ;;;;;;;;;;lリ;;;;;;;;;;/: : : i;;;;;;;;;;''''''  ,,,,,,;;;;;;;;;;;;;;;; ; ; ;
  ..:::|    か  /:: ::. .:::: ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|: : :/;;;;''' c  ,,;;;;;;;;'';;;;;;;; ; ; ; ; ; ;
  :::ヽ    ら /::::....::l‐- 、_ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l: :ノ;;''  , ',' ';;;''',, ,;;;; ; ; ; ; ; ; ; ;
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12月
邯鄲にて劉子興(王郎)が帝位を称す。冀州では趙国より北。幽州では遼東から西が呼応。
劉秀の首に十万戸の諸侯の地位を懸賞にかける。
前漢の広陽王の子、劉接が劉子興に呼応して薊で挙兵。

劉秀、薊を逃れ、昆陽の戦いで共に戦った信都城の任光を頼り移動。

任光は萬脩、李忠達とともに劉秀の支持を表明(勢力4千)。
           
劉秀、饒陽まで逃げてきた時に餓える。辛うじて食事にありつくも、追っ手にかかり
呼沱川で薄氷を渡る羽目に。

信都の下博県に到着。高祖劉邦の神霊に合う。
邳彤が二千の兵を率いて劉秀の元に。信都郡、和正郡が改めて帰順。

幽州の漁陽勢力が、呉漢の偽の檄文により劉秀につくことを表明。
幽州の上谷勢力が、耿弇の勧めで劉秀につくことを表明。

任光の檄文と劉秀の計略で鉅鹿郡の堂陽を無血開場。
常山郡に禹、河間国に馮異、中山国に劉秀が出陣し、後方を固める。

鉅鹿郡で劉秀軍に耿純、劉植が合流。
耿純の地元、宋子を劉子興勢力から奪還。

劉秀、盧奴を落す。劉植の説得で真定王・劉楊と同盟成功。

これまでの戦いで耿純、任光、李忠、萬脩、邳彤、 劉植が仲間に。


         /              \   V     /  ./}
      /                 \  V    /  / i!
      /                   \V  {  /   !i  萬脩が仲間に加わった!
      /                      V  {  /   !ヘ 
      /         \、、            V { /    ! ヘ
.    /            ゙ヾ、ヾ、        V !     !  ヘ
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            i      `ヾ;:::::::::::::::::::::::::::::::/              ト、   i   ヽ
              i         `ヾ;:::::::::::::::::::イ               ヘ `ヽ.、 \.ァ
           i           `ヾ;;;;;:ノ゙1             ヘ   ├´>、工ノ
          i             V   1              i    ̄ ̄
           i               j    i              i


■更始2年(24年)
・・1月
更始帝、首都を洛陽から長安に遷都。政情不安の長安に大赦を出す。 
 

2月
更始帝の諸王封建。
劉嘉が漢中王に、王匡が比陽王に、王鳳が宜城王に、申屠建が平氏王に、
王常が王に、李通が西平王に、李軼が舞陰王に、李松が丞相に任命される。
朱鮪のみ膠東王の位を蹴り、更始帝の怒りを買う。
大司馬から左大司馬に降格。右大司馬は趙萌に。

更始帝、朱鮪、李軼に赤眉軍の撃退を指示。
李通、王常(南陽太守)に荊州の鎮撫を命じる。
趙萌、更始帝の寵愛を得て専横。


2~3月頃
劉秀、郭聖通を妻に迎える。
           
晨、冀州常山郡を劉子興軍に落とされ劉秀軍と合流。
            
劉嘉、更始帝を見限り延岑と共に益州漢中郡に出向く。
劉嘉、校尉の賈復を劉秀に推薦。

劉秀、常山郡に侵攻。魏郡鄴城を落す。
劉子興軍の丞相、劉林の策を耿純が見破る。
常山郡元子、房子を落す。
常山郡に残していた禹と合流。

趙国柏人県で劉子興軍、大司馬・李育と禹が交戦。禹、敗走。
劉秀自ら出撃し、禹が失った物資を奪還。
賈復が仲間に加わる。

幽州の漁陽と上谷が同盟。
漁陽郡の耿弇、寇恂、景丹が率いる騎兵二千、歩兵千人。
上谷郡の呉漢、蓋延、王梁が率いる三千の兵と烏桓突騎が南下を開始。
途中。
呉漢の部隊が劉子興軍の武将四百以上を斬り、三万の首級を上げ、二十二県を攻略した。

冀州鉅鹿郡の辺りで幽州同盟と、
更始帝からの援軍、謝躬、馬武、龐萌が劉秀軍に合流。

劉秀、鉅鹿城を攻略。
1ヵ月後、劉子興軍の別働隊が現在の劉秀の拠点、信都郡を落す。
任光、奪還に向かうも失敗。

劉秀、鉅鹿城の攻略を諦め、信都郡に向かおうとした背後を
劉子興軍の援軍、倪宏、劉奉の兵に突かれる。

南レンの戦い。
劉子興軍:倪宏、劉奉

更始帝軍:大司馬・劉秀
呉漢、蓋延、王梁、朱祐、耿弇、寇恂、景丹、邳彤、任光、
王覇、祭遵、耿純、謝躬、馬武、龐萌、禹、銚期、臧宮、賈復が参加。
兵数数万同士。

苦戦するも景丹の突騎兵で形成逆転。劉子興軍は鉅鹿城に敗走、首級千を奪う。

更始帝からの援軍(氏名不明)が信都郡を取り返す。
信都に戻った李忠、寝返った豪族、数百を処刑。


4月頃
劉秀、耿純の献策で鉅鹿城の攻略を捨て、劉子興軍の本拠・趙国邯鄲を包囲。

邯鄲の戦い。

劉子興軍:偽帝・劉子興。劉林。

更始帝軍:大司馬・劉秀
呉漢、蓋延、王梁、耿弇、寇恂、景丹、邳彤、任光、
王覇、祭遵、耿純、謝躬、馬武、龐萌、禹、臧宮、賈復が参加。
朱祐、銚期は南レンの戦いで負傷し不参加と思われる。


5月
1日、邯鄲、陥落。王覇が劉子興を斬る。劉子興政権滅亡。
劉秀、河北の豪族、官吏が劉子興と内通していた文書を読まずに焼く。
「反側子安(内通がばれないか不安な連中を安心させよう)」という言葉と共に。

王郎平定後までに陳俊・堅鐔(劉嘉の推薦)、傅俊、杜茂が劉秀の仲間になる。



     l l l   l: : : l / ..:/..,,_/. :// . ://   V !  V ', _V  i-
 .     l ll l   l : : :l'..: /  ./:./`゙ト、./ /    ', l_,.-=V ', V l
 .     l ll l    !: : .l:./  //‐- .l_/ >     ハ∧_.. -\l  V !
 .    l.ll l    l : :.iィ'"丁フlFラァミヽ    /  ,. ぅラ¨l! ̄テァ-
 .    ll.l l   l : :.l \ ヾ、リ_シ ノ      i   ヽヾ弋ヒノ ノ"´
 .    l!.l l   l.: :.l    `    ´        !     `¨   ´  悪妻は百年の不作というが……
 .     l. l l   l: : l             l
     i l l   l.: : !              :. l           /
 .   i. l l   l: : :ト            ::..}          /  私を使いこなせるかな?
    i.  ! !   i: : l ヘ            :./        _,,.ム‐
 .   i . :l l     l : :i : :ヽ、      ┬‐--┬_,,.. -‐ニ¨_.. -‐ ¨   わが夫は……
    i . : l l     l: :.l: : l: : \      _..`-‐ニ¨´_.. - ¨/ l: : : l: :
 .  l .: : l l    i : l: : l: :_,,.. -‐''"¨_,,.. -‐''"´   ,.イ!: : :.l : : :∨
   i .: : :l l    _.. -‐ニ¨ _ニ -‐ ヽ、      ィ  l: : : :l : : :/
   ハ .: _.. -‐ ¨´ _.. -‐ ¨:l: : : : !   > _,.ィ"    l : : :.l.: : /:
  匕´ _.. -‐ ¨´  i: :l :l :リ : : : l             l: : : :l :./: :


南陽を守っていた奉の所に赤眉軍の分隊侵攻。更始帝軍の陰識、
奉の所に逃げ込む。

隗囂が更始帝に帰属。右将軍に任命される。

李通と劉伯姫が結婚。

劉秀、更始帝の目付け役・謝躬の暗殺を計るも失敗。

劉秀、更始帝から蕭王の位を貰う。 

更始帝、劉秀の後ろ盾だった幽州の漁陽と上谷の太守解任。
劉秀、幽州牧に朱浮を立て、漁陽と上谷の太守復帰の策を決行し成功。

         
鉅鹿郡のケイで銅馬賊と会戦。清陽の戦いで蓋延、負傷。銚期、苦戦。
禹が晨からの補給を運びつつ援軍。
真定国に行っていた劉秀が呉漢と共に鉅鹿郡に援軍。
銅馬賊。南下し館陶県まで後退。 


劉秀、銅馬賊を破り、その軍を吸収。 

司隸河内郡射犬県に八軍団数十万の盗賊団が連合を組むため集結。
劉秀、盗賊連合の結成を阻止。
馮異、盗賊連合の一つ鉄脛軍を北平で破りつつ、匈奴王の一人を降伏させる。
     
更始帝配下の河内太守・韓歆が劉秀に降伏。岑彭が仲間に加わる。

冀州魏郡の鄴に留まっていた謝躬を岑彭が捕らえる。
岑彭の命乞いを無視し、呉漢が謝躬を処刑する。


■建武元年(25年)
・・1月
前漢最後の皇帝、劉嬰即位。挙兵するも更始帝軍に敗れ、処刑。


平陰の戦い。劉秀、順水で賊軍相手に敗走。

3月
赤眉軍と更始帝軍(李松、朱鮪)が交戦。更始帝軍、敗走。

4月
公孫述が即位。元号は龍興(りゅうこう)。公孫述の府中に龍が出現し、それを瑞祥として。

劉秀、薊城に戻り、戦死者を弔う。

6月
22日、冀州魏郡の鄴(ぎょう)で劉秀即位。
きっかけになった予言書の『赤伏符』に「四七之際火為主」とあり、それは
「4×7=28士が集まるとき、火徳を持つものが天下の主となる」というもの。

新の提唱した五行相生説を受け継ぎつつも、王莽の新は正統王朝とせず、
前漢、後漢を併せて火徳として宣言。
「始正火,色尚赤」『後漢書光武帝紀』

このとき決めた五行相生による流れは元代まで引き継がれることに。
5、後漢=火徳
6、曹魏=土徳
7、晋=金徳
8、北魏=水徳 etc・・・


赤眉軍、くじ引きで劉盆子を擁立。皇帝に即位。

7月
劉秀、禹を大司徒(当時の丞相)に。呉漢を大司馬に任命。

7月~9月
洛陽の戦い。劉秀軍、更始帝左大司馬、朱鮪と交戦。勝利。

9月
赤眉軍、長安に侵攻。劉玄は逃走。

10月
劉秀、洛陽に入り後漢政権の首都に定める。
洛陽が「皇帝」の住処になるのは、このときが初めて(周王朝時代はあくまで王)。

11月
梁王の劉永が、更始帝に見切りをつけ自立。皇帝に即位。

更始帝、逃走先で狂乱し政権幹部の陳牧、申屠建を処刑。
隗囂が更始帝に見切りをつけ離反。
更始帝の重鎮・王匡らが更始帝を見限り赤眉軍に投降。趙萌が逃走。 

12月
更始帝、赤眉軍に降伏後、処刑される。

王匡、赤眉軍から劉秀軍に投降後、気が変わって逃走を図り処刑される。

       ∧_∧    ∧_∧  ∧_∧   ∧_∧
      ( ´_ゝ`)   (´<_ ` ) ( ´_∧`)_∧(´<_`∧)_∧
      /    ヽ ∧_/∧  ∧_∧( ´_ゝ`)  ( ´_ゝ`)
      (  |    |( ´_ゝ`)/( ´_ゝ`)   \∧_∧ \
  ∧_∧ヽ⊃   .| ∧_∧ U   ∧_∧ ..(´<_`  ) | |  俺も王鳳兄者のように
 (´<_`  ) |    (´<_` ).| Y ( ´_ゝ`) ./  ⌒i . ∧_∧
 /∧_∧ヽ| .∧_/∧     .| .| /   \|     | |(´<_`  )
 ( ´_ゝ`)   ( ´_ゝ`) ∧_∧ /   / ̄ ̄ ̄ ̄/| |/    \  引退…はもう遅いか
 /    ヽ  /    ヽ( ´_ゝ`)(__ニつ/  FMV  /..| |____|
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   \/____/ (u ⊃


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翌年から各地で同時進行で戦が始まり、中原の戦いは複雑化します。
要約すれば以下のとおり。

<後漢>     <偽帝、偽王>
耿純    VS 劉楊
耿弇    VS 張歩
蓋延、王覇 VS 劉永、董憲
禹    VS 樊崇
馮異    VS 樊崇、匈奴、隗囂、公孫述
岑彭    VS 奉、董訢、秦豊、田戎
朱祐、祭遵 VS 彭寵、張豊
馬成    VS 李憲
寇恂    VS 洛陽周辺の群雄

(遊撃隊)呉漢、劉秀 ― (流浪群雄)延岑


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  ∧_∧ ∧_\ 全員まとめてこいよ。ボコボコにしてやんよ /
_∧´・ω・)(´・ω・`・.\        ∧_∧              /
ω・)∧_,∧lll ∪)∧.\      ( ・ ω ・)=つ≡つ    /
_∧ ´・ω∧∪∧(・ω・ \      (っ ≡つ=つ     / 今の自分  数年前の自分
・ω・)≡つ);;)ω(;;(⊂≡(・ .\   /   )  ババババ/   ∧_∧   ∧_∧ 
゙  つ=つ(っ  ⊂)⊂=⊂≡ \ ( / ̄∪.      / .;;;、(;ω(:;(⊂=⊂(・ω・ )
_∧∧_∧ ∧_∧_∧∧_∧  ∧∧∧∧.          (っΣ⊂≡⊂=≡⊂ )
´・ω)(  ´・)(    )`  )(ω・` ) <      >        /   )ガガガガ(   \
  つ/    )(    )   \ ⊂)< 予 ボ >        ( / ̄∪      ∪ ̄\_)
――――――――――――― <    コ > ―――――――――――――
                    <    ボ >
                    < 感 コ  >
   傷だらけ?なんでもねえよ <    の > 民の期待       俺        結果
  ∧_∧              <      >  ∧_∧     .・,'∧_∧;,.    ∧_∧
. ((.;.;)ω;)=つ≡つ         ∨∨∨∨    (´・ω・)=つ≡つ);;)ω(;;(⊂≡⊂=(・ω・`)
  (っ ≡つ=つ        /  ∫      \ (っ ≡つ=つ  (っ  ⊂)  ⊂=⊂≡ ⊂)
 /  #) ババババ     /   ∧_∧     \/   ) ババババ| x | ババババ (   \
 ( / ̄∪         /  ⊂( ;ω; )      \ ̄∪       ∪ ̄ ∪       ∪ ̄\ )
             /     ヽ ⊂ )         \ 
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■建武二年(26年)
元旦
日食。劉秀、功臣を列侯にした。二十八将を結成(禹のみ赤眉軍の討伐に出てて不在)。
大国は4県を食邑とした。
洛陽に前漢皇帝11代の廟を立て、社稷を建て、祭壇を築いた。
「この王朝は火徳で、赤色を尊ぶ」と定めた。

第一次、奴隷解放政策を行う。
*当時の奴隷の呼び方は奴婢(ぬひ)。国が所有する官奴婢は、家畜の世話、
宮廷直属の作業場での労働などが主な仕事。

個人(豪族)が所有する私奴婢は家事労働、代表的には男が農業、女が紡織。
解放政策は人道的な意味もあるが、奴婢の稼ぎは非課税になるので、あまり豪族に
多く所有されて脱税されると国として困るというのが本音。

本格的に廃止になるのは王朝制のなくなる清朝末期。

1月
「火徳の9代目の後に、首筋に瘤ある揚が主となる」という予言を流布し、
反乱を企てた真定王の劉楊を耿純が粛清。
耿純はその後、自ら兗州東郡太守に降格を申し出、冀州豪族の怒りを鎮撫。

延岑が南鄭県で漢中王の劉嘉に反逆。公孫述、その漁夫の利を突いて漢中郡を制圧。

幽州の彭寵が幽州牧の朱浮と対立し、反乱。
      
劉永討伐に出陣した蓋延隊の蘇茂、離反。劉永に臣従。


1月~2月
更始帝の残党軍を率いる尹尊を賈復、劉植が討つ。それから間もなく劉植、死亡。
二十八将で、初の死亡者。


6月
7日、劉秀、郭聖通を皇后に立て、劉彊を皇太子とする。

呉漢、9将軍を率い、賊軍から荊州南陽郡宛の奪還。檀郷軍を漳水のほとりで大破。
また、楚の黎王と称して自立していた秦豊軍と交戦、勝利。

劉秀、萬脩、堅鐔も南陽の諸県を平定に派遣。


8月
奉、呉漢の部下が南陽を荒らしたのに激怒。南陽にて謀反。独立。
萬脩、奉の謀反により糧道を絶たれ、陣中にて病死。
劉秀、奉の征伐に岑彭と朱祐を増援として派遣。

祭遵、弘農郡などで蜂起した盗賊を征伐中に負傷。王常、景丹が部隊に同行。
景丹、病にて陣中にて没す。
             
彭寵の乱、討伐の先鋒隊。敗走。



赤眉軍、涼州の隗囂軍と交戦。長安へ敗走。
禹、隗囂の取り込みに西州大将軍を与える。涼州と朔方の専制権を与えている。
長安を押さえていた禹。延岑と交戦中に赤眉が長安を奪回。雲陽に後退。

赤眉軍、漢の皇帝陵墓を盗掘。呂后の死体を屍姦。

赤眉軍の脅威に劉嘉と延岑が和解。さらに禹の策により劉嘉、來歙軍が同盟。
杜陵にて延岑、李宝連合と赤眉軍の逢安が交戦。
また谷口にて劉嘉軍と赤眉軍の廖湛が交戦。
ともに赤眉軍に勝利。
これを機会に劉嘉、來歙が劉秀に帰順。
延岑は禹が李宝を無礼として処刑したのに不満を持ち、逃走。
         
寇恂と賈復がケンカ。のち和解。 
   

11月
銅馬の残党が、孫登を皇帝に押し上げ決起。すぐに内輪もめして自滅。


     /ニYニヽ              /ニYニヽ
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  | ,-)___(-、|        | ,-)___(-、|     俺様フリーダムっていうwwwwwww
  | l   |-┬-|  l |        | l   |-┬-|  l |
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/ __       Y ̄)  |   (  (/     ヽノ_  |       ででてでっていうwwwwwwww
(___)       Y_ノ    ヽ/     (___ノ
     \      |       |      /
      |  /\ \     / /\  |
      | /    )  )    (  (    ヽ |
      ∪    (  \   /  )    ∪
            \_)  (_/


■建武3年(27年)
1月
臧宮、祭遵が更始帝軍の残党・左防、韋顔を荊州南陽の涅陽、酈で撃ち、降伏させた。

來歙、隗囂の元へ友好の使者として遣わされる。

劉秀、劉嘉を青洲・千乗郡の太守に任命。

公孫述、司隷部へ北伐開始。長安周辺を守っていた馮異に撃退。

王莽政権の残党、李憲が揚州で十数万の兵を集める。

赤眉軍、禹から指揮権が移った馮異との激戦後。衰退。
呉漢、劉秀の包囲網の中で降伏。
手を後ろに縛り、顔を正面に向けた。このポーズは降伏の時の伝統のもよう。

赤眉は伝国の玉璽を差し出し、許された。
天子を名乗った劉盆子は、皇族の一員として迎えられた。
劉秀、この勝利を前漢皇帝の加護とし。正式に前漢を継ぐと宣言。


4月
劉秀、奉討伐に親政。小長安の戦い。祭遵が奉の弟、終を撃ち破った。
奉の同盟勢力の董訢、降伏。
奉、朱祐の仲介により降伏。のち処刑。

長安周辺で張邯、芳丹、呂鮪、任良、楊周、汝章ら千~万兵の小軍閥、決起。
延岑、王を名乗る。
長安周辺軍および公孫述軍同盟、馮異、隗囂の共同戦により撃退。   
呂鮪が、公孫述に帰順。


5月
劉秀、荊州の平定を岑彭たちにまかせ、洛陽へ帰還。
冀州常山郡の太守として赴任していた、晨を洛陽に呼び戻す。

彭寵の反乱に幽州上谷太守の耿況が援軍として出陣。朱浮、妻を犠牲に洛陽へ逃走。
        
劉永、蓋延に追い詰められ、救援条件として張歩を斉王に、董憲を海西王に封じた。
劉秀、張歩の切り崩しに、伏隆を派遣。交渉失敗し、伏隆は殺害される。
蓋延、劉永の城を包囲。呉漢も軍を合わせ、数ヶ月に渡って攻め立てた。
蓋延軍の猛攻で、劉永の臣下が恩賞目当てに寝返り劉永死亡。
蘇茂、劉永の息子・劉紆を立て、垂恵を新しい拠点とした。

7月
揚州の李憲が皇帝に即位。


赤眉首領の樊崇が再決起するも敗死。

11月
幽州の混乱に乗じ張豊が謀反。彭寵、匈奴と同盟。燕王を自称。

司隷で馮異と、南陽で耿伯昭と戦った延岑は、どちらにも敗北
延岑、荊州の秦豊を頼り同盟。
岑彭、にて秦豊と交戦。
増援の朱祐と祭遵、秦豊軍の張成、延岑を破る。朱祐、張成を討ち取る。
岑彭、秦豊軍を打ち破り、弱体化に成功。

揚州の李憲討伐の先鋒を傅俊が務める。

公孫述、長江から攻め入る後漢軍の侵攻を防ぐために船体を十層に重ね、
欄干を絹で飾った水上要塞、赤楼帛蘭船を作らせる。

杜茂、驃騎大将軍を拝命。


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■建武4年(28年)
蓋延、劉紆政権の蘇茂と周建を撃ち、続いて董憲と交戦。これらに勝利。
さらに龐萌と共に西防城を落とし、楚郡へ引き返して再び蘇茂、周建と戦い、この際も勝利。
蘇茂たちは東海郡を支配していた董憲と合流。


4月
劉秀、冀州鄴に行幸。
呉漢らを派遣し、盗賊集団・五校を鉅鹿郡などで撃つ。


5月
彭寵の討伐に劉秀が親政。その途中、第4子にして陰麗華が産んだ最初の子。劉陽、誕生。
劉秀、臣下の提案により親政取りやめ。
耿弇らが彭寵の討伐を引きつぐ。  
祭遵、張豊を討つ。
耿弇、一族総出で彭寵と同盟していた2人の匈奴王を撃破。

禹、曄、于匡と共に南陽郡で延岑を撃破。延岑、秦豊軍を捨て、漢中郡に逃走。

隗囂の使者として、馬援が劉秀の元に来訪。


7月
劉秀が豫州沛に到着。
劉紆の拠点、垂恵の攻略に王覇、馬武を指名。
董憲の武将。蘭陵の賁休が劉秀側に離反。

楚郡にいた龐萌と蓋延、劉秀に連絡して蘭陵救援の許可を得ようとす。
劉秀は逆に董憲の本拠、郟攻めを提案。
蓋延は勅命を無視して攻略失敗。蘭陵も陥落し、賁休は殺された。


8月
劉秀、揚州九江郡寿春に行幸し、廬江郡舒を本拠に帝位を称していた李憲の討伐に取り掛かる
馬成、劉隆と共に壇を設け、道祖神を祀った。
馬成に指揮をまかせ劉秀、洛陽へと引き返した。 

匈奴単于、輿。光武帝に使いを送って和を結ぶ。


          ´: /二二二二二`丶
        /: : :.:/ : : : : : : : : : : : : : : : \
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     ': : :i: : :{__/ー┘ ̄ ̄    ̄`ヽノ:j: : : : '
      |: : :l: : :|    _ノ~   ヽ    Ⅳ: : : : |
 ∧___j: : :| : l:| ___..二     ニ.._ !: : : !:Ⅳ
 |    | .: ;レ:.八  弋::::ノ    弋::ノ `ハ: : :N  わらわが悪いのでないぞ
 `ー一'| : { ( ̄    ¨       ¨   ': :レ'┘
      |: :{\ノ           '    {: :|
     |: :\: ーヘ.   r、___    ,' : |    アンチ蓋延は蘇茂に
     |: : : :Y⌒゙ト 、  `ー -'´  イ: : :|
.      ,': : : /|  |  >  __ , イ  .|l : : |   第五倫もだからのう。
     /: : : /│  |      /: : |   |: ∧|
.   /: : :_/ -|  |       {rヘ|   |:│ |
   /x<::::::::::L___j _      \{__ト│ |
  /  ヽ ::::::| : : |   ヽ.  /  ̄|: : :|:::}`\
. /      Y⌒| : : |~ー─-~─|: : :|ー|  ヽ

               龐萌


■建武5年(29年)
正月
隗囂の使者として 劉秀の元に送り込まれていた馬援、涼州に帰還。
隗囂の動向を見るため馬援に來歙が同行。


2月ごろ
蘇茂、盗賊集団の五校と同盟。
王覇、馬武と周建、蘇茂、五校が交戦。王覇、馬武が勝利。
周建、敗走中に急死。蘇茂は東海郡に敗走。董憲と合流。


3月
荊州の夷陵に居を構えた勢力、田戎が岑彭に破れ、益州へ逃走。田戎、公孫述に帰順。

龐萌、蓋延が蘭陵戦での敗戦を自分に被せるのではと疑惑を持ち、謀反。
龐萌、楚郡太守の孫萌を殺害。
その後 蓋延を襲撃、蓋延敗走。

彭寵、奴隷の子密に暗殺される。
漁陽では息子の彭午を立てたものの、家臣の一人がその首を切って降伏。
幽州の争乱終結。

耿弇、呉漢、陳俊は共に平原郡で盗賊集団と戦い、勝利。
また張歩と手を組んでいた泰山郡の豪族も平定。

耿弇、陳俊は青洲平定のため斉王・張歩軍と交戦。
張歩の降伏で終戦。
劉嘉、青洲楽安国千乗に太守として赴任。

二十八将の任光、没す。

并州北部に、匈奴を後ろ盾とする西平王・盧芳政権が出現。


4月
涼州河西の竇融が劉秀に友好の使者を遣す。北や西の軍閥が、味方になってくれた。
劉秀、竇融を涼州牧に命じる。


6月頃
豫州梁国に行幸していた劉秀、龐萌の造反に怒り自ら討伐することを決意する。

荊州の秦豊、降伏。処刑。

7月
劉秀、豫州の沛で劉邦を祭った。ついでに徐州の彭城や下邳を平定。


             ,イ    │
          //      |:!
           //,. -/r‐- 、| !
         /,/ ./ |  _」 ト、
       /.\`/  |二...-┘ ヽ
.        i   ,.>、;/ー- 、    l  わてが漢の初代皇帝・劉邦や
       ! ∠.._;'____\   |
   ∩  ,!イi´●`> <´●`> `\.、ヽ.
   | |/'´ |  ̄、_,、_,  ̄    |\ ヽ、
.   | |\ |    !.ノ        | `''-;ゝ
    \ \|              |. ‐''´  だまし討ちで天下取ったんで
     \|               |
      |              | |     漢らしくはないがのー
       |               | |
      .|               | |
      |               l ∪
       |              /
      \           ./


■建武6年(30年)
正月
馬成が揚州の舒城を陥落させ。李憲は敗走中、配下に殺され李憲政権終焉。

春陵郷を章陵県に改めた。代々税金を免除し、豫州の豊や沛(劉邦の出身地)と同じにした。
洛陽の市に火事あり。

劉秀、第二次奴隷解放政策を行う。

二十八将の邳彤、没す。


長安を守っていた馮異が入朝。劉秀に歓待を受ける
        
3月
公孫述は配下に加えた田戎に荊州南郡を攻めさせた。
荊州の守りを担当していた岑彭が迎撃。

幽州楽浪郡の豪族が反乱。王遵(隗囂配下の王遵とは別人)の派遣により秋ごろ終焉。


4月
劉秀、涼州の隴道から公孫述を討つため耿弇、 蓋延、王常、馬武、祭遵らを進軍させる。
同時に共闘のための最後通告を携えた來歙が隗囂の元へ遣わされた。

劉秀、長安で前漢皇帝を祭った。

來歙、隗囂への交渉失敗。


5月
隗囂が造反。討伐軍、公孫述の前に涼州天水郡へ進軍を開始。
隴山の戦い。隗囂軍の将・王元により耿弇、 蓋延、王常、馬武、祭遵らが敗走。

漢中郡へも、劉秀、李通を大将とした別働隊が送り込んでいた。
迎え撃つのは、公孫述の配下となった延岑。


6月
漢中郡の戦い。李通、王覇が延岑を敗走させた。
しかし、本隊の耿弇達が敗走のため撤退。

劉秀、涼州に調略を仕掛けるが失敗。隗囂軍は弱体化せず。

隗囂軍、司隸扶風郡に侵攻。
ジュン邑の戦い。馮異が1万の隗囂軍・行巡を撃退。
ケンの戦い。祭遵が1万の隗囂軍・王元を撃退。

北地郡の戦い。馮異、隗囂軍の侵攻に乗じて攻めてきた盧芳・匈奴軍の賈覧を撃退。
     
隗囂、劉秀に関係修繕の使者を出す。來歙、ケンを訪れ、隗囂側の使者に
光武帝の意志を伝えた。
隗囂、劉秀との関係修繕を諦め公孫述に、帰順。
劉秀、代わりに隗囂の武将王遵、河西の竇融の引き抜き工作を仕掛ける。
竇融、劉秀に帰順。隗囂と手を結んでいた先零族の首領を撃破。


6月
劉秀、余剰官僚の削減政策。全国で四百の県が併合・廃止される。
結果、官吏の数は以前の十分の一となった。

劉嘉、病のため赴任地から洛陽に戻る。

12月
隗囂の部将が司隸扶風郡(五丈原のある土地)を攻めた。馮異が防いだ。

劉秀、詔して年貢を変更。収穫の三十分の一に減税。


             、 、_/(,ヘ、ト、
         |`ー'`:: :: :: :: :: :: :: :: :: ヽ|\,、
         ゝ:: :: :: 川::,.-ァ,-ァ:,.、:: :: :: :: :ヽ,、
       /:: :: ::イヽ|!/ ´    ,' :)ノ`ヽ:: :: :(_,.
      イ:: :: :/ '  (       ,' : : : : :)ハ:: :: ::\
     ノ:: ::: :ト'          ,' : : : : : : ノ:ィ:: :: ::|
     7:: :: /           ', : : : : : : : : |:: :: ::ト,
     イ:: :: { ,.-=、         ; : : : : : : : :ノィ:: :: :ヽ
     /:: :: ト`_,.- _≧=、/! /`' ': :,.===-: : :/:: :: ::(`
     イ:: ,./`|!  (●) ミ|!_,_;≧,'"==、   /:: :: ::ミ_,
     人:: {  `===彡/ /巛 (●)  ヾ=、イ:: :: ::|`ヾ
    | {,`|::ミ,        ; : : : ====='"`ヾ:: :: ::|!
    | Y|!`     /、 r': : :i : : : : : : : : : : :|!:: ,.-、
    ヽ |!       ` ゝ: := : : : : : : : : : :::彡 ,-, |
     `ーヘ   ,,,,,,,,,,,, `,: :,,,: : : : : : : : : : : :/} ヾ /
       ハ   ,.-──-、, ''''''、: : : : : : : /,.-' /
       | |   `ー、 三三ミ、 |!: : : : : /_/ 「隋唐演義」の伏線、絶対主義!
      ,. | |    、-' : : : : : : : : : : : イ
,.--、__/ / !     ' , : : : : : : : :/:::|
    `ヽ、/  人      ` ,: : : : /:::::::::|
    ,.-'"´|!   `ー 、____ノ:::::::::::|


■建武7年(31年)
後漢の祭祀制度が議論された。
「漢は尭の後裔だから、尭を祭るべきだ」と皆が言ったが、杜林は反論。
「すべての民が、漢を慕っています。これは漢自身が作り上げた徳であり、
尭のおかげではありません。
前漢をまねて(第二の王莽を招き)世を混乱させるのは良くありません」

二十八将の傅俊、没す。

3月
公孫述、隗囂を朔寧王に任命。

劉秀、軍縮政策。軽車・騎士・材官・楼船の兵士と臨時に郡兵に
徴兵していた兵を撤廃。彼らを郷里に帰らせた。


8月
隗囂が涼州安定郡に侵攻、王常は烏氏で、祭遵はケンで、馮異は安定郡の東端、
陰槃でそれぞれ隗囂軍を破り、隗囂は撤退。
しかし道が閉ざされる程の豪雨に見舞われ、追撃は断念。
隗囂の腹心の一人だった王遵が洛陽に至り、劉秀に降伏。

盧芳が支援者の一人を殺害。雲中太守と朔方太守が郡ごと劉秀に降伏。

劉秀、第三次奴隷解放政策を行う。


      / ̄ ̄\ まぁ落ち着け
    /   _ノ  \
    | u   ( ●)(●)   ____ 隗囂!人をおちょくるのも大概にしろお!
.    |     (__人__)  /:::::::::  u\
     |     ` ⌒´ノ/ノ└ \,三_ノ\    ,∩__
.     |        /::::::⌒( ●)三(●)\ fつuu
.     ヽ       |:::::::::::::::::⌒(__人__)⌒ |  |   |
      ヽ      \::::::::::   ` ⌒´   ,/ _ |   |
    /  ̄\   /⌒ .ヽ          i    丿
    |  ヽ、 \/   /(⌒)       ξ) ̄ ̄´
        \ ./   / /         |


■建武8年(32年)
正月
來歙、兵二千と祭遵をつれ隗囂討伐のため涼州へ向け出発。
祭遵は病で帰還。
來歙は、略陽道(「道」は蛮族の土地の「県」にあたる行政区分)を攻略。
隗囂の将、金梁を討ち城を奪取。

隗囂はさらに大軍がくるのを恐れ、王元、行巡、王孟、牛邯を隴山に派遣。
その大軍で来歙を包囲した。
公孫述も隗囂の要請に応え、李育ら一万人あまりを派遣し、略陽の隗囂を救援した。

もと青州の群雄、張歩。安丘侯に封じられ、洛陽に移り住んでいたが逃走を図り処刑。


4月
劉秀、親政し隗囂を攻めた。
竇融も劉秀に呼応し、隴西郡・天水郡・酒泉郡・張掖郡の太守を率いて参戦。

来歙の離間策で隗囂の武将・牛邯が帰順。隗囂の大将十三人も続いた。
十六の県と、十万人の兵も帰順。

隗囂、涼州隴右から西城に敗走。包囲されても、降伏はせず。
劉秀、人質として手元にいた隗囂の息子(隗恂)を処刑。


8月
豫州潁川郡で反乱。
劉秀、強行軍で東へ戻る。この際、隗囂攻めをまかせた武将たちに書面で次のような指示を与えている。
「隴を得てまた蜀を望む」
寇恂と一緒に頴川へ軍を進めると、盗賊たちは簡単に降伏した。

兗州東郡でも反乱。王常と李通、耿純の派遣により盗賊たちは戦わずして降伏。

隗囂軍の上邽部隊と耿弇、蓋延が交戦。
隗囂軍の本隊と岑彭、呉漢が交戦。
隗囂、配下武将の楊広が戦死。
公孫述の将、李育が兵を率いて隗囂を救出。

隗囂の武将・王捷が忠誠を示すため、
「隗王のため城を守る者は、みな死を決して二心はないのだ。願わくばすみやかに戦いをやめよ。
みずからを殺してこれを明らかにせんことを請う」
と、城壁の上で自刎するというすさまじい抵抗を見せ付ける。

王元が隗囂を救出し、天水郡と隴西郡の間にある冀県に戻ることに成功。

劉秀、呉漢に匈奴を討たせる。


11月
兵糧が底をついた呉漢、岑彭が輜重を焼き撤退。
単独では作戦続行不可とみた、耿弇・蓋延部隊も撤退。
天水郡と隴西郡は、ふたたび隗囂に味方し、後漢から離脱。
ケンで祭遵隊のみ残留。


        l   l        l  l  l   l  l l | l  l   l
       l:  l  ,へl l l  l  l   l  l l | l  l fニユ_
.        l:   | /./>へ__l  l .ハ   l  l l | l l r┴--{
.        }:   ∨/ィ'/,ィ_}l l ト l V l  l ∧l l l l|_エエ_|
     _.ノ: :  /f   ‐_二人斗lイ \lV lムl_l りl/ィ ク ./
.   /: :/: : : : :〈     f孑l>ィtチ`   / rテ、ヽム// ,.イ   敵群雄を一つ滅ぼすたび
   レイ: : : : :  \   \' l少       ん' `ム  /: :|
  / ∧: : : l: :   :\   ヽ            /  / : ノ
  | l V、_{: : : : : : :ハ.    }      ゝ   ,'  f: rイ|
  ノ  \  \_: : :/ 丶 ,イ /__ー---ァ  ノ  .ク.:}.}l
 { |   \ <__/   //: } 'ー―--',.イ|   //l<レ l   二十八将の誰かも死んでるのよぉ…
  \l     \.  /    ./: / > 、 /,.-=l // l}} ̄
   |\l       >    /_ノ‐-  / 〃//レノ._ノイ|
   l  \|  /    /\      人-_- lニ-' l |


■建武9年(33年)
正月
二十八将の祭遵 、軍中に没す。
隗囂も病み且つ餓え、最後に隗囂は城を飛び出し、大豆飯を食いまくって死んだ。
精神の病いによるものか、
篭城で弱った体に、食べなれない物を食べた食あたりかは不明。

王元たちは隗囂の息子、隗純を王に立て、抵抗を続ける。
だがその勢力は次第に弱まって行く。

劉秀、班彪の上言により護羌校尉の官を置き。元隗囂軍の牛邯を任命。

公孫述、夷陵を守っていた岑彭の配下を田戎を派遣して破り、守りを固め、
水軍のルートを制限した。


6月
呉漢、并州雁門郡で盧芳の兵と戦闘。賈覧に敗走。
続いて賈覧と戦った杜茂も敗走。

岑彭、田戎への対策として交趾の州牧たちに帰順するよう調略。
成功し、交趾が帰属を表明。
江南の珍しい物産が流通することになった。
また自らの兵を援軍として送る者もいた。貴重な水戦の担い手が加わった。

來歙、馮異、耿弇、馬成、蓋延を率いて隴西を攻略。
馮異、涼州安定郡・北地郡の太守の他に天水郡の太守にも任命。
北地郡で公孫述配下の趙匡将軍と交戦。

趙匡を手強しと見た耿弇、來歙は軍勢を分けて安定・北地郡の多くの軍営を制圧。
隗囂勢力の残党との分断作戦を展開。
蓋延は天水郡に残り、略陽周辺などのこれまでに取りこぼしていた隗囂の駐屯地を回り、平定。
馮異、馬成が趙匡と一年近く戦った末、勝利。趙匡を斬った。

陰麗華の母親と弟が、盗賊に襲われる。
名も残らない役人が法に従って人質ごと殺害した。



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■建武10年(34年)
正月
呉漢、王覇などを率いて雁門郡で盧芳の将、賈覧と再戦。
去年とは反対に、呉漢が勝利を得る。


二十八将の馮異、涼州天水郡冀県の落門で軍中に没す。

二十八将の銚期、没す。

8月
劉秀、長安へ行幸。目的は、安定郡で抵抗を続けていた隗囂の将・高峻を討つためである。

10月
來歙、隗純軍の拠点の一つ、落門を落とす。
隗純、降伏を申し出る。涼州の勢力、滅亡。
王元は公孫述に帰順。


隗囂がてなづけていた羌族の一派、歯止めを失い先零羌が涼州金城・隴西郡に侵攻。
來歙、馬援、蓋延が迎撃。
來歙、数年の戦いで荒廃し始めていた隴西郡の各県に食糧を配給。
貧しい者たちから優先に分け与えた。
これによって、涼州は立ち直り行き来が復活したという。
       
劉秀、最後の最大勢力・公孫述軍との最終決戦のため南北両面作戦、開始。
荊州の岑彭、臧宮、劉隆は夷陵を奪還し、そのまま江水(長江)を遡って成都へ。
隴西の來歙、蓋延、馬成隊は益州へ南下して成都へ。
呉漢は水戦に詳しくないことから、後方支援を受け持っていた。


■建武11年(35年)
2月
劉秀、人権宣言の詔を出す。
「天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪
(この世界においては人こそが貴い。殺したのが奴婢であっても罪を減じることはできぬ)」
「敢灸灼奴婢,論如律,免所灸灼者為庶人。
(敢えて奴婢に灸灼するのも法律通りに罰し、その奴婢は庶民に戻す)」
「除奴婢射傷人棄市律
(奴婢が人を傷つけた場合に死刑とする法律を削除する)」

天地之性人為貴は「孝経」からの引用

馬援、再び涼州に攻め寄せた先零羌を撃退。
來歙の推薦により馬援は隴西郡の太守に任命。

3月
荊門(宜昌の東南)を守る公孫述側の将・田戎。
岑彭隊の船団と交戦。岑彭隊の六万人、騎馬五千の軍勢が荊門を突破し、江水から益州へと出発。
劉隆は中継地点の荊州南郡に残留。
長江を遡り、益州江州(巴郡の治所)を包囲。水軍で攻め、巴郡を突破。

6月
涼州武都郡の下弁・河地を守る公孫述側の将は環安と王元。
來歙隊と交戦。
環安は降伏、王元は敗走。來歙軍は河地と下弁を陥落させ、さらに南へ進軍を続けた。

来歙、降伏した環安に暗殺される。蓋延、病んで撤退。
北方部隊は馬成のみ進軍継続。

7月
劉秀、公孫述討伐軍の支援のため長安に入る。
岑彭、臧宮と二手に別れる。岑彭は西進、臧宮は北上。
臧宮、平曲で公孫述軍の延岑、王元と交戦。勝利。延岑は敗走し、王元は降伏。

8月
岑彭、益州の黄石、沈水、広都を突破。

10月
二十八将の岑彭、彭亡にて逃亡奴隷に扮した公孫述軍の刺客に暗殺される。
これにより成都目前で臧宮隊が孤立。
        
北方部隊の馬成、馬援、涼州武都郡河地を平定。

12月
後方支援の呉漢、夷陵より三万人を率いて長江を遡り公孫述討伐に出発。
軍縮による兵不足を補うため、囚人を軍に編成。

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■建武12年(36年)
正月
呉漢、益州犍為郡魚涪津で公孫述配下の軍勢に勝利。
岑彭隊の生き残りと合流。
呉漢、犍為郡武陽・蜀郡広都を連取。

劉秀、公孫述に降伏勧告をするも無視される。

7月
篭城を続けていた江州が陥落。公孫述の将・田戎は処刑された。

9月
フ水を遡り進軍していた臧宮が、広漢郡フ城・綿竹などの拠点を奪取。
成都へ向かって南下を開始。

呉漢、公孫述軍の首都・成都に侵攻。
公孫述軍の将・謝豊、袁吉と交戦し呉漢敗走。

洛陽に来ていた幽州上谷太守の耿況が病没。

呉漢、広都と成都の間で公孫述軍と再戦。八戦八勝して呉漢が勝利。
別働隊の臧宮も成都に到着。


延岑、決死隊を率いて呉漢を撃退。呉漢、死にかけるも九死に一生を得る。

11月
公孫述自ら出陣し、決戦。
延岑、臧宮軍と三戦三勝して延岑が勝利。
公孫述、呉漢の配下に刺され戦死。後を託された延岑、降伏。

呉漢、延岑・公孫述の一族を処刑。兵士の略奪を許可し、宮殿を焼き払った。
死傷者は一万人に上った。
呉漢の副官・張堪、蜀の公式文書を保管。
臧宮、広漢太守とし、制圧した蜀の守りとして駐屯。

12月
王常、盧芳ににらみを利かせるため、北方の駐屯地へ出向いた先で軍中に没す。
杜茂、囚人を率いて国境の砦や狼煙台を修理する任務に当たる。
劉秀、匈奴対策のため焦土戦法を打ち出す。
逗留法の処罰対象から辺境の官吏を除外。

二十八将の寇恂、没す。

劉秀、第四次奴隷の解放政策を行う。


■建武13年(37年)
最後の勢力、并州の盧芳。公孫述が滅んだことに恐れをなした部下達が離反。
戦闘継続を諦め、匈奴のもとに逃走。

4月
呉漢が洛陽に凱旋し「兵革すでに息(や)む」と宣言。
「こうして天下は一つになったのである――」と。一方、劉秀に虐殺と略奪を叱責される。

時期不明
二十八将の耿純、没す。

劉秀、第五次奴隷の解放政策を行う。

禹、賈復、耿弇が兵権返上。
禹、賈復は特進という顧問役に。


■建武16年(40年)
劉秀、前年の墾田の面積や戸籍・年齢調査に不正を見つけ。再調査。
二十八将の劉隆、知人に連座して有罪となり、洛陽の獄に繋がれた。庶民に落とされ処刑は免れる。

兗州東平国の国相になっていた、もと隗囂の武将・王元。
墾田の申告が実際とは異なっていた罪により逮捕され、獄死。

2月
交趾で徴姉妹の反乱。交州交趾郡・日南郡・合浦郡。九真郡の65城が呼応。

匈奴のもとに逃れたはずの盧芳、唐突に劉秀に降伏。
劉秀、降伏を受け入れ、盧芳を代王に封じた。

9月
土地調査により利権を奪われる事を危惧した豪族達の乱。
青州・徐州・幽州・冀州と全国に飛び火。

10月
使者を郡県に回らせ、
「兵を挙げた者よ。5人で1組みになり、1人の賊を斬ったなら、5人の罪を免除する」
と伝えた。また、反乱軍に対応できず逃げた役人の罪も不問にした。

これで反乱軍の間に疑心暗鬼が生じ。6分の1は斬られ、6分の5が帰順した。
ただし、役人が盗賊を匿っていた場合は罰するとケジメをつけた。


■建武17年(41年)
6月
太子・劉衡(母は陰麗華)、没す。

10月
皇后・郭聖通、中山王太后に降格。陰麗華が皇后に昇格。

盧芳、疑心暗鬼にかられ反乱。失敗し、再び匈奴のもとに逃れた。

劉秀の叔父、劉良、没す。

天下統一を祝って、郷里の叔母たちと宴会を開いた。
        
■建武18年(42年)
益州で史歆の反乱。呉漢、劉尚、臧宮を率いて、出陣。

4月ころ
徴姉妹討伐に馬援、副官に劉隆が出陣。最終的には二万の軍勢になった。

特進になっていた挙兵時からの盟友、李通、死去。

夏ごろ
馬援軍、交趾郡・ランパクに到着。
風土病で兵たちに疫病が蔓延する中、徴姉妹と交戦。
実戦経験の薄い徴姉妹軍、敗走。

呉漢、史歆の乱を平定。

朔方が并州に編入され、交阯が交州に昇格、司隸を13の中に入れるようになった。
本編で使用してる13州になったのは、正確にはこの時から。


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■建武19年(43年)
正月
カムケー(禁渓)で劉隆、徴弐を討ち取る。数千の敵兵が斬られ、二万人近くが降伏。
徴側も戦死。徴姉妹の乱、平定。

馬援、慣習法を元に交州を再建。
さらに反乱軍の残党掃討のために九真郡まで進軍。
平定ついでに人口調査や人口に応じて新しい県の創設なども推進。



司隸河南郡原武城にて、新興宗教団体による反乱。
劉秀、臧宮に数千の精鋭を与え城を包囲させたが、膠着状態。
太子、東海王・劉陽の進言で鎮圧。

6月
皇太子の取替えを行なった。
長子・劉彊が皇太子から東海王に。四子、東海王・劉荘が皇太子に。

皇太子となった劉陽、劉秀の命令により名を荘と改める。
普及の多い陽という字が諱(いみな)になるため、地図の大幅書き換えになるのを
防ぐためと思われる。

二十八将の杜茂、没す。
二十八将の李忠、没す。


■建武20年(44年)
馬援たちが交州を平定し帰還。

郭聖通の弟、郭況が九卿の一つ、大鴻臚に任官。

5月
二十八将の呉漢、没す。
劉隆が驃騎将軍となり、大司馬の仕事を兼任。


<時期不明>孝廉制度制定。
身分秩序を安定させるために、大きな効果あり。


■建武21年(45年)
10月
馬援、長城から出撃して烏桓を奇襲。被害の大きい痛み分けで終わる。


西域の16国が、同盟の証として子を人質に差し出したが
国内の再建を理由に、子たちを返した。

         
■建武22年(46年)
9月
南陽郡(荊州)を中心とした地震
        
■建武23年(47年)
二十八将の陳俊、没す。

匈奴王の一人・比が西河郡を訪れ、後漢王朝に帰属。


■建武24年(48年)
二十八将の朱祐、没す。

荊州武陵郡に住む五渓蛮(ごけいばん)という異民族の征伐に向かっていた
劉尚の軍が深入りしすぎて全滅。
第二次征伐軍として馬援、耿舒の四万人の部隊が出陣。
馬援、天候不良のためと病のため勝てず。
替わりに梁松が軍を引き継ぐ。

馬援、軍中に没す。
梁松、馬援を中傷。劉秀、疑惑を信じ、馬援の列侯の印綬を取り上げた。       
馬援の一族の訴えで劉秀は反省し、馬援を正式に埋葬させるよう一族に促した。

匈奴、南北に分裂する。



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        ∠-‐ァ' /_,,......_  \、`ー;:< ヾ|
          ,r''"´ : -: :、: : i : : ノ!゙>;';';';';';\
         /     . : : : ', i /V゙/\;';';'「` `
       /        . : : :,:|{ ヽ\`i.`'ヾ  私は、明帝の皇后である。
      /      : : . : : : : /i!  ∨ー-、
     ,':.       :. . ; : : / i!;;;:  ゙、;:;., \
    i'::::.         / / i!;;;;;;  ,〉;:;:; ノ
     |::::.        '/    |_'' /、__/      名が……何故か伝わってない。
    ,!::.   :.  :::.  /'       |::  i;:;:ヽ
    /:::.   :::.   ::::::/:::.     |:::.  ト、 ゙、

           馬皇后


■建武14年(38年)
劉秀、第六次奴隷の解放政策を行う。

二十八将の王梁、没す。


■建武15年(39年)
1月
大司徒の韓歆、劉秀の怒りを買い、子の韓嬰ともども自殺に追い込まれた。
武官出身である意味粛清までされたのは彼のみ。
詳細は不明。

韓歆は民に慕われる一方、後漢に投降する前から劉秀を無意味に挑発する行動が多く
劉秀の我慢の限界を越えさせたと思われる。
劉秀は後に韓歆の遺族に詫び。金銭・穀物を下賜し、非礼にならない様に葬った。


劉秀、天下復興の手始めに墾田の面積や戸籍・年齢を調査させた。

匈奴に対応する目的で北方に駐屯していた朱祐、劉秀に兵権を返還し引退。
囚人を率いて国境の砦や狼煙台を修理する任務に当たっていた杜茂が横領の罪で免職。
匈奴対策事業は馬成が引き継いだ。
并州・冀州・司隷部の各所に保塁や狼煙台・物見櫓を築造(あるいは補修)。

二十八将の蓋延、没す。
順陽侯・劉嘉、没す。


■建武25年(49年)
匈奴単于・呼韓邪、北匈奴を破る。後漢に朝貢し、穏健路線を復活させる。


■建武26年(50年)
はじめて使匈奴中郎将を設置した。
南単于は、子を後漢に差し出した。
雲中、五原、朔方、北地、定襄、雁門、上谷、代郡の8つが
「本土に帰」した。

二十八将の堅鐔、没す。
西華侯の晨、没す。

匈奴単于・呼韓邪、子を入朝させる。


■建武27年(51年)
5月
劉隆、将軍職を返上。

劉秀、官職名の改訂。
「むかし、契(せつ)は司徒となり、禹は司空となった。
古代は、前漢の大司徒・大司空みたいに『大』の文字がついていない。
余計な『大』の字を除け」
「大司馬という名前を廃止し、大尉と改めよ」
と命じ、これで後漢末まで見ることができる三公の官名が定まった。

ちなみにこれは朱祐の案を採用したのだった。


 l::::::::::::::::::|_!::lヽ:::::::::ハ::::::::::::::::::::::::::::::::i、::!
  !:::::::::::::::::l-‐ェ!;ト ヽ:::::l ´!:::::::::::::::::::::::::::::l
  l:::::::::::::::::「(;;;)ヽ、__、::レ'´l:::::::::/l、:::::::::::::l 
  !:::::::::/l:::l__,,,rタ"゙、;!)、__!::::/ノ 〉、::::::::l  私が返還した途端、大司馬の名称改訂……
   l::::/ lヽ!    _ _   l;/´  ! >、::l
  ノノlヽ、_!             /_ノ:::| 
    l::::::>、    ──     /i:::::::::::l  呪われた称号になったからとでも
    l:::/ /::ヽ、       ,ィ'::::!\:::::l 
    レ' ム-''´lヽ、  _,,./! ゙ヾ!__ヽ!  
            !   ̄     レ;'´  |  
        /| _,,.-/´  ;; .,,,-!   言いたいのですか!?
       / 斤'"〇 /´    ,;;:''" _,l_ 
      /; l、」_,,/     '' ゙;;/  ヽ
      /!,r''´!/  /     ';,/"゙''':;,,,,;;'' \
    / l ,;;  |l  /`'';, ,,   /   ,;;''"゙''   l


■建武28年(52年)
6月
元・皇后、郭聖通、没す。

沛王・劉輔を逮捕。罪状は劉盆子の兄、劉恭を殺害した更始帝の息子を援助していたこと。
これを機に劉秀、ならず者の取り締まりのため全国に詔を下し、
諸王の食客を逮捕。死罪になった者は千人単位。

劉彊・劉輔・劉英といった公子たちが、はじめて領地である各国へ赴く。


■建武30年(54年)
2月
群臣から劉秀に封禅を勧める上奏があった。


■建武31年(55年)
二十八将の賈復、没す。

■建武32年→建武中元年
正月
劉秀、『河図会昌符」という緯書にあった
『劉氏の九世の子孫は泰山に集まれ』という文に従い封禅の儀の実地を決意。

2月
劉秀、侍御史(儀礼の監視・弾劾担当の官吏)たちを泰山に派遣して、
式場の近くに建てる刻石文(石碑)を作らせた。

22日
劉秀、諸王、高官が参列する中、「封」の儀式を行う。「封」とは、土を集めて祭壇を作ること。

25日
劉秀、「禅」の儀式を行った。「禅」とは、土を除いて祭ること。

劉秀、儒教的祭礼のための明堂・辟雍・霊台といった施設を建造。
批判した桓譚が郡の次官に左遷される。赴任の途中、失意の桓譚は死去。


二十八将の馬成、没す。

4月
年号を三十年以上続いた建武から中元に改元。
劉秀、図讖(緯書)を天下に宣布。

<時期不明>後宮を宦官だけにするため「中常侍」職を設置。

匈奴単于・呼韓邪死す。弟莫が単于となる。穏健路線は継続。

6月
赤い草が生えた。あちこち郡国で甘露が降った。
これを飲んだ人は、持病が癒えたが、眼と脚の病いだけには効かなかった。

群臣は、
「天と地の神が、陛下の中興を認めたのです。史官に出来事を記録させて、後世に伝えましょう!」
と奏上した。
「私はろくに徳がない人間だから、天地に認められるわけない」
光武帝は却下した。
『後漢書』は「史官は吉祥をあまり書き残せなかった…」としょんぼり。


■建武中2年(57年)
正月
倭の奴の国王が、奉献した。倭奴国の使者に対し金印を授ける。
余談:倭の奴の国王の奉献を受けた皇帝は、近い年に死亡してる。
伝染病でも運んでいたのかは不明。

匈奴単于・莫死す。弟の汗が単于となる。次代の明帝の治世末まで、匈奴との争いは無くなる。

2月
劉秀、没す。諡(おくり名)は『光武帝』。
・・・~帝というのは死後付けられる。生前の呼び名は(親しい者以外)陛下や今上。     

光武帝の遺言は。
「私は万民の役に立てなかった。前漢の文帝のように、質素に埋葬してくれれば、充分だ」
「刺史も太守も長吏も、任地の城郭を離れてはいけない。役人を遣わし、全土に駅伝して、
私の死への哀悼を告げて回るな」

皇太子・劉荘、帝位に就く。
山陽王・劉荊が造反。劉荘、劉荊に謹慎処分を下す。

3月
光武帝、原陵に埋葬される。
二十八将の劉隆、没す。

4月
劉荘、劉隆の驃騎将軍の後任に東平王の劉蒼を任命。
特進(顧問)として陰麗華の兄・陰識と郭聖通の弟・郭況を配置。
劉荘、貴戚の子弟の為に四姓小侯学という学校を建設。


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   i   . '     チュンチュン...
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  ;;{ 四姓小侯学  };;;;;||╂╂╂╂╂╂╂╂╂―╂╂╂
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■永平元年(58年)
5月
二十八将の禹、没す。

時期不明
二十八将の耿弇、没す。
二十八将の臧宮、没す。
元・皇太子の東海王・劉彊、没す。

■永平2年(59年)
二十八将の王覇、没す。
陰識と郭況、没す。

山陽王・劉荊が呪詛を行なう。劉荘、劉荊に山陽王から広陵王に転封する処分を下す。
九卿の一つ、太僕だった梁松、解任される。

■永平3年(60年)
班固『漢書』の執筆開氏。

8月末
日蝕。

12月
劉荘を批難した梁松、投獄され獄死。

■永平4年(61年)
二十八将の馬武、没す。

■永平5年(62年)
竇融、没す。

■永平7年(64年)
正月
皇太后・陰麗華、没す。

劉荊、造反を繰り返す。

■永平8年(65年)
10月
劉荘、匈奴対策に囚人を辺境警備へ転用。五原郡に定住できるよう措置を行なう。

■永平9年(66年)
正月
五原や朔方に第二次、囚人辺境警備政策、実施。

■永平10年(67年)
2月
広陵王・劉荊、獄中で自殺。

4月
農業と養蚕を奨励。

■永平12年(69年)
劉荘、王景に命じて黄河の治水工事を行なわせる。
工事は成功し800年の平静を保った。

■永平13年(70年)
楚王・劉英、緯書の類を偽造。造反と見なされ王を廃された。

10月末日
日蝕。

■永平14年(71年)
劉英、自殺。

疑心暗鬼にかられた劉荘により「楚王劉英の獄」はじまる。
全国の関係者、各地の役人・高官が獄に繋がれた。
死刑になるもの、流刑になるもの、合わせて千人以上。
数千人が牢獄に繋がれた。

袁安、寒郎らの諫言により冤罪者が許され、終結。

<時期不明>
劉荘、洛陽にある南宮の雲台(天文台)に父・光武帝と共に戦った二十八将の絵を描かせた。
雲台には、その後四人が加えられて三十二将となる。
のちの人々は彼らを星座の二十八宿の生まれ変わり『雲台二十八将』と呼んだ。

■永平18年(75年)
劉荘、没す。諡(おくり名)は明帝。

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               ~漢~


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